大人とは 癒しや救いを求めにことである [精神現象]

部分は全体である。

部分の中にも部分であるものと部分でないものがある。
それは証明できないが、部分の中に二つの部分がある。

これが絶対矛盾の自己同一性だ。
これは現実に成立しないが、意識の中で成立する。
これが文章の自由性だ。

これは現実で実証することはできない。
即ち、文章現象と現実現象は、不確定性原理で遮断されている。

*。
即ち、文章は嘘や妄想の自由である。
その中に真実もあれば、嘘であることもある。

これは現実で検証しなければならない。
すると嘘や妄想は検証されない。

文章の自由性は、妄想の自由性であった。

    *。
この妄想を使って、自由文学ができる。
これは文化の豊かさであることもあり、そうでないこともある。

文学とは文字の発振であることが分かる。
これが学問芸術となることもある。

そうでないこともある。
この狂気や犯罪は文章の多様性でもある。

*。
金・官能・感動が犯罪や狂気であることもある訳だ。
そうでないこともある。
それは証明できない。

この自由性を使って、人間を拡大したり、歪めることもできる。

   *。
殺人と強盗を、愛とか魂とか上書きできる。
そこに癒しや救いも作れる。

それは現実にはないことだ。

*。
ここに愛や魂、癒しや救いを求め、幸福感・躍動感・解放感を得ることができる。
そこに充実感や満足感を感じる。

だがこの対偶に、
孤独感・無力感・寂寥感・喪失感・不安感が生まれる。

両者はワンセットで、現実となる。

*。
即ち、癒しや救いは現実からの脱走であったことが分かる。
これで現実が癒し救われることはない。

    
    *。
現実を生きるのか、現実否定を生きるのか。

後者の文学は、現実否定であった。
即ち、嘘や妄想であった。

*。
これが永遠の少年症候群であった。
そこには大人がない。

*。
大人になることは、癒しや救いを求めないことだ。
これを求める児童文学だ。

だがこの世には子供もいる。
彼らは優しさを求め、だが残酷である。

    *。
優しさと残酷の共存は、畜生性であり、人間性ではなかった。
それは児童文学の世界だ。

*。
お上日本は、子供の世界であった。
そこは屁理屈の世界だ。

大人になることは、ここに癒しや救いを求めないことだ。

*。
この事情は、1Q84に書いてある。
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